産婦人科医暦45年のDr.Toeによる趣味のサイト
私の釣歴は比較的浅い。そして、その経歴も人とは少々違う。皆様同様、近くの池に近所の悪童達とたまに出かけた以外には、 川にも、ましてや
海等に釣りが趣味ですと出かけたこと等全く無かった。でも、今から思うにT少年の当時の行動に、今の私の釣行に一脈通じるものが無いでもない。奈良の田舎に疎開していた
未だ小学低学年の頃だった。冬から早春にかけ、学校から帰ると鞄を放り出して近くの溜池の土手に、そり 滑りに出かけるのが日課のようになっていた。
左図は初めてルアーにヒットしたハマチ |
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土手の下には池の水を田畑に送る排水溝、というとコンクリートの冷たい溝を想像するが、そんなものではない。乾いた枯草の下の奥から清らかな水が
こんこんと湧き出ている秘密の場所なのだ。暖かい日差しに誘われるように小鮒が数匹静かに顔を覗かせては引っ込むのである。そり滑りに疲れると、ここで枯草の上に腹ばいになり水面に顔を
突き出して、日が西に傾き肌寒くなるまで小鮒たちを眺めていたものだ。
右図はギリシャの聖地マウントアソス修道院のアポロ 神父との交信を証する交信証、世界の珍局のひとつ |
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そんなある日、悪童達に誘われて訪れた釣具店で私は何とも美しい飾り物のような、でも確かにその先には小さくて鋭い針のついた擬餌針に魅せられて しまった。私はそれが擬餌針というものであることも知らなかったし、こわい悪童達の後から、おずおずと入った店で”これ何ですか、どのように使う物なのですか”と聞いて みる勇気など全くなかった。でも、咄嗟にあの土手の下の小鮒たちが頭の中をよぎり、そして思った。あの春の日差しの下にちょこっと顔を出す彼らも、こんなに美しいもの なんだからきっと飛びつくに違いないと。 右図はルアーで年間500余尾のキャッチアンド リリースの実績を誇るスズキ(セイゴ、ハネ) 出世魚と呼ばれ、成長につれ呼び名が変わります |
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春の陽のもと、湧き水の中に頭をのぞかせては引っ込むコブナたちに、あの見た事も ない輝きの毛鉤をどうしても見せたかった。 あんなに綺麗な毛鉤なのだから、コブナ達が飛びついて離さないことを僕は信じてやまなかった。 しかし、 毎夜停電がある戦後間もなくのあの頃、私の家では小学低学年の私にお小遣いを出せる状況ではなかった。 でも私は、家のお使いで配給のコッペパンを受け取りに行くとき、母がお金を出してくる袋戸棚の引き出しを良く知っていた。 右図はインド洋マレー半島沖に浮かぶアンダマンニコバル諸島との交信証。インド領であるが、軍政下にあり永年アマチュア無線は許可されてこなかった。ようやくその運用が許可され、運用が開始されたその時、地下にある震源で大地震が発生し、インド洋大津波の大災害を引き起こした。 アマチュア無線は直ちに非常通信に利用され、その真価はインド政府の認めるところとなり、インドでのアマチュア無線は飛躍的に普及した。この交信は地震発生数時間前に行われたことになる。 |
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余り抵抗もなくお金をつかむと、釣り道具屋に駆け込んで、一番綺麗に見える毛鉤を数本手に入れた。 コブナはさっと毛鉤の前まで出て きて停止した。まぶたを二三度パチクリし、胸びれをうちわのように動かしたあと、きびすを返して帰って行った。 左図は明石海峡でトローリングで釣り上げたサゴシ(この魚も出世魚で大きいものはサワラとよばれます |
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六畳の畳の部屋の真ん中に、ガラスの傘のついた薄暗い電燈が一つ、重苦しい面持ちで下がっていた。 戦後間もなくの頃、畳は擦り切れ、電燈は薄暗く黄色い光を放っていた。今はともっていても必ず今晩も停電があるに違いなかったあの苦しい時代のことである。 部屋の真ん中に、そして電燈の真下に、いかにも重たそうな 一枚ものの和机が座っていた。家族そろっての食事も、学校の宿題をするのも、習字のお稽古をするのも、正月用の餅を切るのも全てこの机で済ませていた。 しかしこの机を、父が非常に大切にしているのを、何度も見たことがあった。何でも、祖父が大切にしていた形見の机であったらしい。 右図は永年にわたる政情不安のためアマチュア無線の運用される機会が非常に少ないアフリカのコンゴ共和国との交信証 |
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その夜、私はこの机を中にして、母と二人で向き合っていた。たしか二人とも正座 していたように思う。いや確かに正座していた。 母のその鋭い眼差しは私の全身に突き刺さり、いかにも厳しく、いかにも重たく、身じろぎ一つ許される状況ではなかった。 私に対して発せられた言葉はその行為を一つ一つ非難するものでもなく、私の行動を罵倒しようとするものでもなかった。 左図 一回り大きく成長しサワラになりました。 |
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母は私に明日から 学校に行かなくて良い。学校は辞めなさい。学校の教科書は全部ランドセルにまとめなさい。自分の衣類も全部一まとめて風呂敷に包むように。明日学校に
行って先生にご挨拶をしたら、直ちに吉野の山奥に引越ししましょう。お母さんと二人きりで、誰もいない山の中で自給自足の生活を始めましょう。 私が黙って家の金を持ち出したことを戒める母として最強の提言だったのだ。 母の目からは一筋の涙がとどまるところを知らず流れていた。数年前94歳で見送るまで、 母の涙を見たのはこの時だけ。永く患った父を見送った時も母は決して涙を流さなかった。 右図はカリブ海米領デシェヘオ島との交信証。戦後米軍の射爆場として使われ、以後皮肉にも環境保護のため、永年にわたり上陸が禁止されてきた。 |